2009年06月29日

日本の海運会社

日本の海運会社は、1963年に成立した海運2法により海運集約が行われたほか、近年さらに大手海運会社同士の合併が行われ、現在の大手海運会社は日本郵船(世界2番手)、商船三井(世界3番手)、川崎汽船(世界4番手)の3社体制となっている。

また、外航航路とは別に内航海運として沿海航路が発達し、独自の進化を遂げている。製鉄会社主体の一般在来型貨物船オペレーター、石油会社主体の内航タンカーオペレーター、旅客輸送も行う長距離フェリー船社、島嶼間輸送における独占的なオペレーター、製紙会社主体のRO-RO船オペレーター等多様である。また、利用運送事業の方面も発達し零細企業でも頭角を現す企業がある。

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プラザ合意による円高で、それまでドル建で資産を決済していた海運各社は大打撃を受け、バブル景気に反して厳しい経営状態が続いていたが、2000年代には中国国内の好景気によって住宅建設や工業設備への需要が急成長し、中国政府の資源政策や建設と機械装置用の鉄鋼需要の拡大の影響から、鉄鉱石・石炭といった重量資源の輸送需要が拡大した。また、同時に中国製低価格消費財の貿易量も増大したため、その原材料と製品の輸送需要も加わって、国際的な貨物輸送が行なえる船舶への需要が世界的に急拡大した。これにより世界的に船賃(トンキロ)が高騰するとともに、貨物船不足が発生しはじめた。海運各社は新造船発注を増大させ、新造船の価格である船価も高騰して造船各社は活況となった。海運業や造船業で需給が逼迫し、こういった「船バブル」から海運会社の業績は回復してきている。2007年後半から始まった米国発の世界的な景気減退の影響は今後拡大が懸念されている。

2009年06月11日

三角関係(さんかくかんけい)は

三角関係(さんかくかんけい)は、三人の人間が同時に恋愛関係に陥る状況をいう。

恋愛関係は、婚姻関係の前段階であると考えられることが近年では一般化している。そのため、一夫一妻制の制度下では恋愛も1対1であることがごく自然なことと理解されている。一方で恋愛感情は変化しやすい側面を持つと同時に、恋愛におけるモラルは個々の解釈によって異なるため、三角関係と呼ばれる恋愛関係が生じる。

同時に二人のパートナーと恋愛関係になることを二股と呼び、これを三者共に認識したときに三角関係になる。婚姻関係が成立した後は浮気や不倫などと言う別称でも呼ばれる。

恋愛・婚姻における人間関係は、愛情や信頼に大きく左右される。そのため三角関係はパートナーの裏切りととられることが少なくない。実際問題として三角関係が生じた場合は恋愛関係の大きな分岐点になることは少なくなく、婚姻関係においては破綻することも珍しくはない。男女とも離婚の原因の上位3位に異性関係が入っている。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー


こうした恋愛関係はごく日常的に起こりうる可能性を秘めているため古来より文学や映画、小説等で描写されることが多い。近年でも多くのTVドラマや漫画で頻繁に取り上げられる一般的なモチーフで、特に映画ではロマンティック・コメディというひとつのジャンルになっている。漫画にも男女の恋愛をモチーフとしたラブコメというジャンルが形成されており、その系統の作品においては三角関係を超えたより複数との恋愛関係も描写されることがある。

2009年06月07日

2ストロークディーゼル機関

ディーゼル機関ではガソリン機関のように火炎伝搬の限界によるボアの限界が無い為、大型化に有利である。また、ガソリン機関に比べ、熱効率が高く、多種類の燃料を使用する事が可能である。複合化することにより熱効率は40%を越え、燃焼行程を経ない為にカルノー効率に支配されない燃料電池をも上回る。

ディーゼルエンジンでは小型から大型の機関が、自動車、軍用車両、鉄道車両、建設機械、航空機、船舶、コジェネレーション用として存在する。

1926年、ドイツの「ユンカース」と「クルップ」2社の協力により、上部のピストンとクランクシャフトをサイドロッドと呼ばれるコネクティングロッド(コンロッド)でつなぐ上下対向ピストン式エンジン (Opposed piston engine) が開発され、画期的な2ストロークディーゼルエンジンが誕生した。ダブルアクティングとも呼ばれる。

シリンダーヘッドが存在しないこのエンジンは、燃料供給は必然的に直接噴射となり、世界初の無気直噴エンジンとなった(無気とはエアインジェクション無しで、圧縮行程のシリンダー内に高圧で燃料のみを噴射し、霧化する方式)。

上下対向式はその後、ギア連結の上下2クランクシャフト方式へと進化、さらなる高回転化が可能となり、航空機に搭載された。

6気筒、12ピストン、排気量16.6リットルのユンカース ユモ 205 (Jumo 205) は熟成を重ね、後継のユモ 207では最大出力1,000ps(745.7kw)/3,000rpm、過給器付きユモ 205では1,300PSにも達した。

日本では1936年に「日本デイゼル」がユンカース / クルップの特許を取得して、サイドロッド駆動の上下対向式エンジンの生産を開始、会社名を採ってND型と名付けられた。これが日本初の自動車用2ストロークディーゼルエンジンとなる。

日本デイゼルはその後「鐘淵デイゼル」へ社名を変え、製品名もKD型へと変えられた。KD型は、単気筒から直列4気筒までのモジュラー設計で、気筒数を表す数字を付けられたKD1型(1362cc)からKD4型(5448cc)と、KD4のボアアップ版のKD5型(4気筒 7540cc)をラインナップしていた。
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第二次世界大戦終戦直後の民生産業(鐘淵デイゼルから1946年改称)製KDエンジンは、1940年代後期の日本製高速ディーゼルとしては最強の部類に属したが、反面「背が高い、騒音が高い、(燃費・オイル消費や構造の複雑さから)維持費が高い」という意味で「三高(さんだか)エンジン」と呼ばれる難物でもあった。サイドロッド式は最高回転数が1,500rpm程と低く、1951年発表の改良KD3型(3気筒 4086cc)では、120PS(88.3kw)/1,800rpmまで高められたが、それ以上の高回転化(高出力化)は難しく、競合メーカーの生産する簡潔な設計の4ストローク高速ディーゼル機関に対抗するにも、進化の限界を迎えていた。

民生は旧態化したKD型エンジンに見切りをつけ、今度はゼネラルモーターズとの間にライセンス生産契約を交わし、1955年、これも日本の自動車用としては唯一となる、ユニフロー掃気式ディーゼルエンジンのUD型エンジンを発表する。

2009年04月24日

クリシュナ

クリシュナ(デーヴァナーガリー Krisna)は、インド神話に登場する英雄で、ヒンドゥー教におけるヴィシュヌ神の第8の化身(アヴァターラ)。

ヴィシュヌに匹敵するほどの人気があり、ガウディヤ・ヴィシュヌ派では最高神に位置づけられ、他の全ての化身の起源とみなされている。

クリシュナにまつわる物語は数多い。幼児期や青春期の恋愛物語の主人公、英雄の導き手としてなどその立場は多種多様だが、根幹部分の設定は変わらない。インドでのクリシュナ人気は、非ヒンドゥー教の様々な逸話を吸収したことが大きい。

古来よりインド絵画の題材のひとつであり、その名がサンスクリットで「黒」「闇」を示すとおり、青黒い肌の男性として描かれる。 クリシュナには別名があまたあり、広く知られている呼称はゴーパラ(Gopala、牛飼い)、ゴーヴィンダ(Govinda、牛と喜びの保護者)、ハリ(Hari、奪う者)、ジャガンナータ(Jagannatha、宇宙の支配者)、マーダヴァ(Madhava、春を運ぶ者)、ダーモーダラ(Damodra、腹に紐をかけた者)、ウーペンドラ(Upendra、インドラ神の弟)などがある。

一説によれば、約16000人もの女性を満足させた絶倫の神でもある。

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文学的起源
クリシュナの行動を記録する最も初期の媒体は叙事詩『マハーバーラタ』である。この中でクリシュナは、ヴィシュヌの化身として主要人物の一人として登場する。その中の『バガヴァッド・ギーター』では主人公アルジュナの導き手として登場する。また『バーガヴァタ・プラーナ』ではクリシュナ伝説が集成されている。有名な愛人ラーダーとの恋については詩集『サッタサイー』が初出であり、ジャヤデーヴァの『ギータ・ゴーヴィンダ』はインド文学史上特に有名である。

2009年04月06日

リアーナ

リアーナ(Rihanna 本名:ロビン・リアーナ・フェンティ Robyn Rihanna Fenty 1988年2月20日 - )は、バルバドス出身の女性歌手、モデル、ファッションデザイナー。Def Jam Recordings所属。[1][2][3][4]

現在は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンディエゴで生活を送っている
生い立ち [編集]
1988年2月20日にバルバドス人の父と、黒人のガイアナ人の母との間に生まれる。[2]バルバドスの小学校チャールズ・F・ブルーム記念学校、そしてグラマースクールのコンバーミア中学校(アメリカの工業学校に類似した6学年制の学校[2])に通い、学校では2004年にミス・コンバーミア・ページェントで優勝、学園祭ではマライア・キャリーの「ヒーロー」を歌うなどした。15歳の時、彼女の友人の一人が当時バルバドスに休暇で訪れていたニューヨークのプロデューサー、エヴァン・ロジャースに彼女を紹介し、人生の転機を迎える。ロジャースと、彼のパートナーのカール・スターケンはアメリカ合衆国で彼女の宣材用録音を手伝い、様々なレコーディング会社にデモを送った。その内の1つがデフ・ジャムのCEOであるジェイ・Zに届けられ、彼女が16歳の時にデフ・ジャムと契約することになった。[6] 2008年2月21日に行われた誕生日パーティで母国バルバドスの首相デーヴィッド・トンプソンから直々にバルバドスの名誉文化大使に任命された。バルバドス政府はこの日を「リアーナの日」とし、文化貢献を称え、セント・ジェームズ教区にある一等地をプレゼントした。この土地はリアーナの私有地となる[7]。

音楽活動 [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

2005年:ミュージック・オブ・ザ・サン [編集]
2005年8月にアルバムからのリードシングル「ポン・デ・リプレイ」をリリースし、アメリカ合衆国とイギリスのシングルチャートで2位を記録した。このシングルの1週間後にはデビューアルバム『ミュージック・オブ・ザ・サン』を発表。アメリカ合衆国では発売週に69,000枚を売り上げ、全米アルバムチャート(Billboard 200)で初登場10位を記録した[6]。アメリカ合衆国では現在までに60万枚を売り上げており、RIAAからはゴールドディスクに認定されている。世界では100万枚のセールスを記録している。

2006年:ガール・ライク・ミー [編集]
2006年4月、2作目のアルバム『ガール・ライク・ミー』を発表。発売週に115,000枚以上を売り上げ、全米チャート(Billboard 200)で初登場5位となる。ソフト・セルの大ヒット曲「汚れなき愛」をサンプリングしたシングル「SOS」は、ビルボードのビルボード・ポップ・100(Billboard Pop 100)、ホット・デジタル・ソングス(Hot Digital Songs)、ホット・デジタル・トラックス(Hot Digital Tracks)、ホット・ダンス・エアプレイ(Hot Dance Airplay)などの各種チャートで3週連続の1位を獲得[8]。また、全米シングルチャート (Billboard Hot 100) では34位から1位への急上昇を記録し、「TOP40圏内における1位への最大ジャンプ・アップ記録」を42年ぶりに更新した。

2007年 - 2008年:グッド・ガール・ゴーン・バッド [編集]
2007年3月には、次のアルバムからのリードシングルとなる「アンブレラ」を発表。フィーチャリングアーティストとして同じレーベルメイトのジェイ・Zが参加した。このシングルは、アメリカ合衆国の主要チャートであるビルボードのビルボード・ホット・100チャート(Billboard Hot 100)で7週連続の1位を記録。またイギリスのUK・シングル・チャート(UK Singles Chart)では10週連続の1位、ヨーロッパ・シングルチャート(Eurochart Hot 100 Singles)でも11週連続1位、ワールドチャート(United World Chart)でも10週連続で1位を獲得するなど、大ヒットとなった[10][11]。UK・シングル・チャートにおける10週連続の1位は、ウェット・ウェット・ウエット(Wet Wet Wet)が1994年に発表した「ラブ・イズ・オール・アラウンド」の持つ15週連続1位に次ぐ記録となった[12][13]。

2007年6月にジェイ・Z、ティンバランド、ジャスティン・ティンバーレイク、ニーヨ、レネ・マーリンらのサポートを受けた3作目のアルバム『グッド・ガール・ゴーン・バッド』をリリースし、全米チャート(Billboard 200)で2位、カナダとイギリスのアルバムチャート(Canadian Albums Chart, UK Album Chart)で1位を獲得した。売り上げ枚数はアメリカ合衆国で100万枚、世界では270万枚。RIAAからはプラチナディスクに認定された。

アルバム発売の1週間後には、アルバムからの2作目のシングルとなる「シャット・アップ・アンド・ドライブ」を発表。全米シングルチャート(Billboard Hot 100)では最高順位15位、全英シングルチャート(UK Singles Chart)では最高順位5位を記録した。[11]その後7月20日にはアルバムからの3作目のシングル「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」を、8月21日にはニーヨをフィーチャリングしたアルバムからの4作目のシングル「ヘイト・ザット・アイ・ラヴ・ユー」を発表。「ドント・ストップ・ザ・ミュージック」はヨーロッパ・シングル・チャート(Eurochart Hot 100 Singles)で3週連続の首位を記録した[11]。

第50回グラミー賞に主要2部門、その他4部門、計6部門にノミネートされた。結果は「アンブレラ」でノミネートされていた最優秀ラップ・コラボレーション賞を受賞した。

2008年5月には、アルバムからの5作目のシングルとなる「テイク・ア・バウ」を発表。 アンフェイスフルや、ヘイト・ザット・アイ・ラヴ・ユーと同様、ニーヨによるプロデュースで、『グッド・ガール・ゴーン・バッド』の再発盤である『Good Girl Gone Bad: Reloaded』に収録される新曲である。 全米シングルチャート(Billboard Hot 100)では、ダウンロード解禁を機にチャートをジャンプアップし、1位を獲得。 なお、『Good Girl Gone Bad: Reloaded』には、マルーン5とのコラボ曲の「イフ・アイ・ネバー・シー・ユア・フェイス・アゲイン」も収録されている。

2008年6月には、『Good Girl Gone Bad: Reloaded』のリリースと同時にアルバムからの6作目のシングル「ディスタービア」をリリース。ビデオ公開後、ダウンロードセールスを伸ばし、全米シングルチャート(Billboard Hot 100)で自身4曲目の1位を獲得。

2008年9月、癌の研究を行う“Stand Up to Cancer”に資金援助をするためのキャンペーンに参加。癌に対しての意識向上と闘病支援、癌の研究や資金を援助する大型キャンペーンで、このキャンペーンの為に組まれたユニットに参加。マライア・キャリー、ビヨンセ、メアリー・J. ブライジなど知名度と人気の高いジャンルを超えた女性歌手15名で構成されるユニットで、9月2日にiTunes Storeでチャリティー・シングル「ジャスト・スタンド・アップ」が発売された。

2009年1月、『グッド・ガール・ゴーン・バッド』からの7枚目のシングル「リアブ」が、全米シングルチャート(Billboard Hot 100)でトップ20入りを果たす。 ジャスティン・ティンバーレイクが出演したPVが話題となりダウンロードセールスを伸ばし、 アルバムからの7枚のシングル全てがトップ20入りという快挙を達成した。

私生活 [編集]
2007年9月頃、俳優のシャイア・ラブーフと食事をする姿が目撃され、熱愛報道がされたが、リアーナは「ただの友達よ。お互いによく知りもしないの」と恋仲を否定した。また、同時に以前噂になっていたオマリオンとの関係についても否定した[14]。

2007年10月に放送されたMTVの番組での共演以降、俳優・ジョシュ・ハートネットとのニューヨークのクラブなどでの2ショットが度々目撃されたことで、2人の交際が噂された。ジョシュは当初肯定も否定もしない曖昧な返答を、リアーナは交際を否定していたが、その後11月初旬に行われたワールド・ミュージック・アワードでのインタビューの際、リアーナがジョシュとの交際を認める発言をした[15][16]。

2007年10月頃、MTV Video Music Awardsで共にパフォーマンスをしたクリス・ブラウンとの関係が噂される。2人は首に似たようなタトゥーをしている[17]。互いに交際を認める発言はしていないが、ホテルのプールなどで仲良くすごす姿が目撃されている[18]。

クリス・ブラウンによる暴行事件
2009年2月8日、第51回グラミー賞授賞式当日にクリスと車内で口論となり、暴行を受ける。クリスは暴行を加えてその場から立ち去ったが、後に出頭。逮捕されたものの、保釈金を払い保釈された[19]。

後日、クリスは「どれだけ申し訳なく、悲しく思っているか、とても言葉では説明できません。牧師や母、そして愛する人たちに助言を求めているところです。そして神の力を借り、より良き人間に変わることを誓います」と謝罪文を発表。また、Facebook等にクリスがリアーナを批判するような書き込みを行ったという報道があったが、それは自身が書き込んだものではないとした[20]。

19日、芸能サイトTMZにリアーナの暴行をうけた直後の顔写真が掲載される。顔中腫れ上がりあざができた痛々しい姿は衝撃を与えた。なお、この写真が流出したのはロサンゼルス市警の関係者のリークと考えられており、市警では内部調査が行われる。この写真流出をリアーナの父は「(ロサンゼルス市警の)だらしない仕事だ」と非難した[21]。

暴行をうけた直後からコメントを出さずに沈黙を続けていたリアーナだが、20日に公式コメントを発表。内容は「当局の要請により、リアーナがクリス・ブラウンに関する事件について言及することはありません。ファンの皆さんには、弱気になることはなく元気だということ、この辛い時期に皆さんから寄せられているサポートを深く感謝していることを、断言したいと申しております」[21]。

事件の影響は大きく、リアーナは予定されていたマレーシア公演をキャンセル。クリスも出演していたCMの出演中止、オール・スターNBAバスケット・ボール大会の出演もキャンセルとなった[22]。

ディスコグラフィー [編集

アルバム [編集]
ミュージック・オブ・ザ・サン - Music Of The Sun (2005年)
ガール・ライク・ミー - A Girl Like Me (2006年)
グッド・ガール・ゴーン・バッド - Good Girl Gone Bad (2007年)

シングル [編集]
ポン・デ・リプレイ - Pon De Replay (2005年)
イフ・イッツ・ラヴィン・ザット・ユー・ウォント - If It's Lovin' That You Want (2005年)
SOS - SOS (Rescue Me) (2006年)
アンフェイスフル - Unfaithful (2006年)
ウィ・ライド - We Ride (2006年)
ブレイク・イット・オフ - Break It Off feat. Sean Paul(2006年)
アンブレラ - Umbrella feat. Jay-Z (2007年)
シャット・アップ・アンド・ドライブ - Shut Up and Drive (2007年)
ドント・ストップ・ザ・ミュージック - Don't Stop the Music (2007年)
ヘイト・ザット・アイ・ラヴ・ユー - Hate That I Love You feat. Ne-Yo (2007年)
テイク・ア・バウ - Take A Bow (2008年)
ディスタービア - Disturbia (2008年)
リハブ - Rehab (2008年)

ツアー [編集]
2006年:The Pussycat Dolls With Rihanna
2006年:Rock tha Block Tour
2007年:Good Girl Gone Bad Tour
2008年:Glow in the Dark Tour(カニエ・ウェスト、N*E*R*D、ルーペ・フィアスコと共に)
2008年:Tour with Chris Brown in Australia and New Zealand

アイス スノー ランブ トリック フレデ マーチ シュテム マイウェイ ショナリー トーゴ ミクシィ スロット キール ビターオ キニン バイテク スタチン マジソン ピンドル オスカー 夏のロ ティハリー シンフォ ピョン ウムドン オマーン ミートボガ トッポッ ニズム スタン ベンジャ ダイヤ ランマ 大正琴 ガザ二ア ダイマー コットン ハラシ 道のむこ ショア マルク だいとう クーポン ピューリ チダー キシリ アンゴ ゆかいな スター ハニー

2009年03月22日

国鉄157系電車

国鉄157系電車(こくてつ157けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1959年(昭和34年)に設計・製造した長距離用直流電車である。最初に投入された列車の名を採って、「日光形電車」とも呼ばれる。

1963年(昭和38年)までに一般旅客用車両31両のほかに、皇室用貴賓車クロ157形が1両製造されている。クロ157形は157系に組込まれる車両ではあるが、特殊用途のため、他車とは別節にて解説する。
プライス ルックス オレン クリーム スペキ バンク ふるさと ハナナ オリジナル トップトラ オーロラ ストロー 暮らし ギング フーテン ビバレッ スーパー ション プロット とびいろ 白梅便利 すその ヒヨド メゾソ 京いも ソウチク ハンド ブラック デュアル みやこ トリマー ハシッシ カプセ ドッグ レンゲ アドオン きつね パープル 赤いろうそく ファイト プロフ ファンファ タックス キャル イグル あまぎ コメント いなば 検索ゆずゆ ファッ

東京から日光へは、1956年(昭和31年)10月からキハ55系気動車による準急「日光」が運転されていたが、1958年(昭和33年)には東北本線・日光線の電化が完成したため、国際的観光地である日光市に向かう「日光」号を電車化し、スピードアップすることが計画された。そのうえで国際観光列車としての色彩や競合する東武鉄道への対抗、将来の急行形車両の設備向上の試作的意味から準急列車用に開発・製造されたものではあるが、151系電車に準じたデラックスな特急形車両並みの車内設備を有して設計・製造され、後に特急列車にも投入されることになるのが本系列である。

計画時は22系電車と称したが、落成が同年6月の車両称号規程改正後となったため、157系として登場した。

構造 [編集]

車体・機器 [編集]
性能的には、153系をベースに、主電動機には出力100kWのMT46系を採用。歯車比は4.21 (19:80) とし、勾配の介在する日光線内の運転条件を考慮して抑速発電ブレーキを装備した。台車は電動車がDT24形、付随車がTR59形を採用[1]している。

編成内の電動車比率(MT比)を高めるため、先頭車を電動車としたクモハ157形 (Mc) とモハ156形 (M') でユニットを組み、反対側にも電動車ユニットを逆向きに連結して、その間に付随車のサロ157形 (Ts) 、サハ157形 (T) を2両ないし3両組み込むことを基本とした。また、準急用であることから食堂車は製造されなかった。

新製時の外板塗色は、キハ55系と同様のクリーム色(クリーム4号)にスカーレット(赤11号)とされていた。なお先頭部の裾(後部標識灯・タイフォンの下)のクリーム色の帯は、1次車の落成時は細いものであったが、2次車から太くなり統一されている。後に冷房装置の搭載にともなって、赤色が他の特急用車両と同様の深い赤(赤2号)に改められた。

車体断面は153系に準じた形状としたが、出入口は151系と同様の幅700mmの片引戸が2か所に設けられた。側窓は冷房装置の搭載が当面見送られたことから、開閉可能なバランサ付き1段下降窓とされた。ただし、屋根には将来の冷房装置設置の準備工事が施工されており、その部分は板で塞がれ扇風機が設けられていた。その後、1963年からAU12S形分散式冷房装置の搭載工事が全車に対して施工された。

車内設備 [編集]
先述のように、特急形車両と同等の車内設備を持たせるということで、座席は一等車がリクライニングシート、二等車が回転クロスシートとされた。

一等車のリクライニングシートは151系のものと基本構造は同一だが、準急形ということで表地は赤7号の合成繊維となり、シートラジオは省略された。テーブルは151系のものと同じく、通常は座席背面の袋に収納し、使用時に袋から出して肘掛け横の穴に差し込むというものであった。

二等車の回転クロスシートは151系のものを改良し、座席背面の折畳みテーブルを外付け式とした。また二等車では座席背面のほか、側面窓下の壁面にも灰皿を設けている。

荷物棚は当時としては珍しいパイプ式のものであった。

トイレ・洗面所はすべての車両に設けられていたが、サロ157形には外国人観光客に配慮して洋式トイレが設置されていた。

形式 [編集]
※は当初の計画段階での形式である。

クモハ157-1?10(※モハ22形奇数番号) 
モハ156形とユニットを組む三等制御電動車。前面は非貫通で、踏切事故などの際に乗務員を保護するために3.2mm厚の鋼板を使用し、高運転台構造になっている。運転室後部には冷房装置搭載時の電源供給用大型電動発電機(MG)[2]を納める機器室が設けられた。
前面には、この形式独特の列車愛称表示器(ヘッドマーク)[3]が設置された。青地に白線で翼をモチーフとした逆台形で、中心部の正方形部分に紙芝居式に差し換えて表示する原始的なものだが、正方形部分の上部に蛍光灯が設置された電照式であり、そのためクモハ157形の前面部右側には電源供給用のコネクタが設置されていた[4]。なお、「あまぎ」・「白根」については新しいデザインのヘッドマークに変更されている。
モハ156-1?10(※モハ23形偶数番号) 
クモハ157形とユニットを組む三等中間電動車。一位側にトイレがあり、二位側にドアがある。デッキに続く空間には車内販売の基地を兼ねた売店を設置し、電気冷蔵庫や電気コンロを設置し、流し台こそないものの簡単な調理が可能である。また、戸棚やショーケースが設置されている。売店の向かい側には立食も可能な軽カウンターが設置されており、冷房搭載時に冷水機も設置された。
冷房搭載時の電力負荷増に備えてパンタグラフも1基を増設できる準備工事がなされており、冷房改造と同時に2基搭載とされた。ただし、クロ157形の牽引車を兼ねる1・2は、冷房化前の1962年(昭和37年)に予備としてパンタグラフ2基搭載改造[5]を施工した。
サロ157-1?6(※サロ27形) 
二等付随車(→一等車→グリーン車)。6は、冷房改造工事や「ひびき」定期化で予備車が不足することから1963年に増備されたもので製造当初からの冷房車である。
サハ157-1?5(※サハ28形)
三等付随車。
クロ157-1 

2009年03月06日

ケンタッキー (USS Kentucky, BB-6)

ケンタッキー (USS Kentucky, BB-6) は、アメリカ海軍の戦艦。キアサージ級戦艦の2番艦。艦名はケンタッキー州に因む。

艦歴
ケンタッキーは1896年6月30日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工し、1898年3月24日にクリスティーン・ブラッドリー(ケンタッキー州知事ウィリアム・ブラッドリーの娘)によって命名、進水、1900年5月16日に初代艦長コルビー・M・チェスター大佐の指揮下就役した。
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夏の間のニューヨーク海軍工廠での整調後に、ケンタッキーは1900年10月26日にジブラルタルとスエズ運河経由で極東へ出航した。1901年2月にマニラで他の艦と合流し、6日後に香港へ出航、3月23日にルイス・ケンプ少将指揮下の南方艦隊旗艦に任命される。翌年までケンタッキーは艦隊と共に極東巡航を行い、煙台、大沽、南京、Woosung、香港、厦門、長崎、神戸、横浜といった中国や日本の港を訪れた。

フランク・F・ワイルド少将はケンタッキーを旗艦として選択し、1902年3月1日にケンプ少将と交代して座乗する。しかしワイルド少将はレインボー (USS Rainbow) に旗艦を変更し、大西洋艦隊司令官のロブリー・D・エヴァンズ少将が11月4日に横浜でケンタッキーを旗艦として選び、極東におけるアメリカ海軍の作戦活動を指揮した。1904年3月13日にマニラから母港に向けて出航し、スエズ運河とジブラルタル海峡を通過し、5月23日にニューヨークに到着した。

ケンタッキーは10月26日にニューヨーク海軍造船所でのオーバーホールを完了し、その後は大西洋岸で戦術艦隊演習を北大西洋艦隊と共に翌年まで行った。1905年の秋にはメリーランド州アナポリスおよびニューヨークでイギリス艦隊の歓迎に参加し、続いて東部海岸沿いの巡航を行った。キューバで暴動が発生すると1906年9月23日にプロヴィンスタウンでメイン (USS Maine, BB-10) 、ミズーリ (USS Missouri, BB-11) と共に海兵隊部隊を乗艦させ、10月1日にアメリカ合衆国の権益および財産を保護するため部隊をハバナに上陸させた。ケンタッキーは地上部隊支援のため10月9日までキューバ水域に留まり、その後は北大西洋で戦術、戦闘訓練を再開した。

1907年4月15日にジェームズタウン博覧会に参加するためバージニア州ノーフォークを訪れ、続いてニューイングランド沖で訓練を行った後、ハンプトン・ローズで「グレート・ホワイト・フリート」に加わる。ケンタッキーに以前座乗したエヴァンズ少将が指揮官となり、艦隊は1907年12月16日に世界巡航に出航した。ケンタッキーは第2戦隊の一艦としてセオドア・ルーズベルト大統領の観閲を受けた。トリニダードとリオデジャネイロの訪問後、マゼラン海峡を通過しチリのプンタアレナスとバルパライソを訪れ、ペルーのカヤオ湾て停泊した後メキシコのマグダレーナ湾で一ヶ月間砲撃訓練を行う。艦隊は1908年4月14日にカリフォルニア州サンディエゴに到着し、5月7日にサンフランシスコへ移動した。そのちょうど2か月後、ケンタッキーはゴールデンゲート海峡を通過、配属替えとなりホノルルに向けて出航した。その後ハワイからニュージーランドに向かい、8月8日にオークランドに到着する。艦隊は8月20日にオーストラリアのシドニーに到着し、一週間後にメルボルンへ出航した。

その後9月10日にオールバニーを出航し、フィリピン、日本、中国、セイロンの港を訪れた後スエズ運河を通過した。1909年1月8日にポートサイドを出港し、第4分隊と共にトリポリ、アルジェを訪れた後ジブラルタルで編成替えが行われる。2月6日に帰路につき、ハンプトン・ローズに2月22日に到着、再びルーズベルト大統領の観閲を受ける。

ケンタッキーはフィラデルフィア海軍造船所で修理完了後、1909年8月28日にノーフォークで退役したが、1912年6月4日に第2予備役艦隊入りしニューヨークに向かい、その後フィラデルフィア海軍造船所で1913年5月31日に再就役のための作業に入る。

1915年6月23日にフィラデルフィアで再就役し、7月3日にニューヨーク市民兵を訓練するためロングアイランドからニューイングランド水域、チェサピーク湾への巡航を行う。8月31日に市民兵の訓練はフィラデルフィアで完了し、9月11日に政情不安のメキシコへアメリカ合衆国の権益を保護するため出航する。1915年9月28日にベラクルスに到着し、1916年3月にはルイジアナ州ニューオーリンズでニューオーリンズ・マルディグラに参加したが、その後は1916年6月2日までメキシコ水域で巡航を続けた。

ケンタッキーはグアンタナモ湾、サンタドミンゴ経由でフィラデルフィアへ向かい6月18日に到着する。ニューポート沖北部で同年夏は航海、戦術訓練を行い10月2日にニューヨークに到着、年末までノース・リバーに停泊する。1917年1月1日に修理のためニューヨーク海軍造船所に入り、アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦するまで同所に留まる。5月2日にバージニア州ヨークタウンに到着し、訓練艦として新兵を乗艦させチェサピーク湾、大西洋岸沿い、ロングアイランド湾で訓練を行う。1918年11月11日に停戦協定が結ばれたが、ケンタッキーは15番目の新兵グループを訓練中であり、それまでに数千名の兵を訓練し送り出していた。

12月20日にはオーバーホールのためボストン海軍工廠に入る。1919年3月18日にグアンタナモ湾から回復訓練のために航海し、その後ノーフォークからニューイングランド水域で艦隊演習に参加した。5月29日にメリーランド州アナポリスに到着し、海軍兵学校性を乗艦させると6月9日に夏季訓練巡航に出航しキューバ、バージン諸島、パナマ、ニューヨーク、ボストン、プロヴィンスタウンを訪れる。8月27日にアナポリスに帰還、士官候補生を下艦させると8月30日にフィラデルフィア海軍造船所入りする。ケンタッキーは1920年5月29日にフィラデルフィア海軍造船所で退役し、1924年1月23日にワシントン海軍軍縮条約に基づきペンシルバニア州ピッツバーグのドラボ建設にスクラップとして売却された。

2009年02月17日

ままらぶ

年の差カップルの恋愛を中心に、同じマンションの住人たちの日常をコミカルに描いた、行動選択式のアドベンチャーゲーム。年頃の娘を持つ母親がメインヒロインのラブコメという異色作である。最大10話構成で、中盤までの共通ルートの後、各ヒロインルートへと分岐する。第一話で涼子とのHシーンに到るとクリス、瑠璃、かおりルートへの分岐が不可能になる(小雪ルートは分岐可能)。また共通ルートでも涼子だけのシーンが追加されるので、涼子は最後に攻略することが推奨される。
ロール ラズベリ ジュニア つじばしゃ リンドウ ツーショット MIX サイバー ジオン ショート ネクトン タイムカプ 大和撫子 ダッフ マタニテ みなのがわ モットー アクア フレクター リッパ 新緑 ハイパー ひろさき ジョン 春夏秋冬 スライン じゅんぼ スンデ ピストル 大和 フィブロ はしげた カバロール ユーモア ネス メロデ イヌコ シリビン メラノ タニリ スパイシー 決意 はちりゅ ピンハ マテバ 飛騨紅 ルース べびーぽ テクス クロロキン

旧式のブラウン管テレビ状のフレームが表示され、コミカルなセリフに笑い声の効果音を合わせるなどの演出がある(これらは設定でオフにすることも可能)。一話ごとにOP、EDクレジットムービーが流れ、CMアイキャッチらしきものもはさむなど、ホームドラマ仕立てに大いにこだわっている。テキストもHシーン以外は主人公の心の声はなく、セリフだけで進むというものである。また、各話のタイトルはアメリカンホームコメディを中心とした過去のテレビ番組名をモチーフにしている。

分譲マンションのフローリアス樹ヶ丘の5階に住む3世帯はまるでひとつ屋根の下で暮らしているかのようなアットホームな間柄。だが、桜木家の息子である桜木浩二と藤枝家の未亡人である藤枝涼子はひそかな恋人関係にあった。そして出会って5年目の記念日をふたりっきりで祝うことになったのだが……。

桜木浩二(さくらぎこうじ)
声:なし
物語の主人公で502号室の住人。5年前に涼子に出会った際に一目ぼれして2カ月目に告白し、物語の半年前に想いを受け入れられる。自由人な父親を反面教師にしてか、考え方は真面目で女性には一途、こうと決めたことは曲げない熱い心を持つ。野球部で全国レベルに匹敵するエースとして活躍していたが、肩の故障で退部している。アダルトゲームの主人公にしては珍しく立ち絵やメッセージウィンドウでの表情が用意され、Hシーンのビジュアルでも表情を描き込まれることが多い。
藤枝涼子(ふじえだりょうこ)
声:まきいづみ
501号室にある藤枝家の未亡人で、浩二の母親代わりであり最愛の人。浩二のことは「浩くん」と呼んでいる。親友の理恵に「年齢不詳の化け物」と言われるほどの若い容姿の持ち主。年齢は明らかではないが、物語中で30歳代後半であることが示唆されている。職業はウェディングドレスのデザイナーで、リョウコ・タチバナとして名が知られている(タチバナは涼子の旧姓)。性格はのんびりしていて天然気味。夫の死後女手ひとつで小雪を育て、桜木昭の長年のアタックをもよせつけなかった身持ちの堅い女性だが、ひとたび恋に落ちるとどんな障害もはねのけて愛を貫こうとする。酒に弱く、少量でも一瞬で酔っ払う。発売後の公式HPにおける人気投票で1位を獲得し、抱き枕が販売されている。まきいづみの声が「怖いくらいのハマリ役」と名高い。
藤枝小雪(ふじえだこゆき)
声:韮井叶
藤枝家のひとり娘で浩二の1年後輩。父親は小雪が生まれる前に他界している。活発で強気な性格で、浩二のことが好きながらもつい反発する、いわゆるツンデレタイプ。世話好きでしっかり者であり、母親の涼子をリードする場面が多いが、母娘そろって壊滅的なお人よしでもある。彼女の浩二への好意は学園内では公認視されているが、肝心の本人と涼子共々気づいておらず、特に涼子には浩二を嫌っているとさえ思われている。各話のタイトルコールも担当している。
クリスティーナ・ホステトラー
声:カンザキカナリ
浩二のフィアンセを自称し、501号室に住み着くアメリカの少女。通称はクリスで、浩二とは同い年。彼女の母親・スーザンと浩二の父親・昭が知り合い。能天気な性格で英語交じりの日本語を操る。正体は巨大ハンバーガーチェーン・マクドウェルの総裁の娘で主任研究員を務める天才少女。銃器と格闘術にも通じている。
菊永瑠璃(きくながるり)
声:茶谷やすら
浩二の遠い親戚で3歳年下。浩二が引っ越す前に近所付き合いがあった。内気で可憐な妹分を演じるが、実際は陰で浩二を奴隷扱いする真っ黒ご主人様。養父に虐待されて家出をしたという狂言で住人の同情を誘い、藤枝家で暮らし始める。
秋月かおり(あきづきかおり)
声:一色ヒカル
503号室の住人で帝王大学生だが、官能小説作家兼アダルトゲームのシナリオライターが実質の本業。複数のペンネームを持ち、サイン会を開ける、ちょっとした売れっ子。普段は下着とワイシャツだけで過ごし、音読しながら官能小説を執筆するなどで浩二を困らせる。いつもけだるそうに話し、つかみどころのない性格だが、職業柄洞察力に優れていて、浩二と涼子の関係や瑠璃の本性にもいち早く気づいている。
桜木昭(さくらぎあきら)
声:胸肩腎
浩二の父親。軽いノリでだらしない性格だが、くどき上手で女性にモテまくっている。自称優秀なビジネスマン(正体は国際的なエージェント)で、日本と海外を頻繁に行き来している。クリスや同僚からはアレックスと呼ばれている。涼子にモーションをかけていたがまったく相手にされなかった。
桑原理恵(くわばらりえ)
声:如月葵
涼子の親友で、同い年だが3カ月若い。彼女とオーダーメイドウェディングの会社を共同出資して設立した、実質の経営者。自立した大人の女性で仕事に厳しいが、親友のために親身になる情の深さも併せ持つ。若い頃に昭と付き合っていたらしいものの、現在まで独身。自分のことを棚にあげて涼子を再婚させようと画策する。もちろん浩二と涼子の関係を知らない上でのことである。
沢田豊
浩二の親友で野球部のキャプテン。キャッチャーで浩二の球を受けていた。浩二の追っかけに手を出すなどちゃっかり者ではあるが、正義感が強く友達思い。瑠璃からキャプテンサワダと呼ばれる。
由香(女生徒1)、佳澄(女生徒2)、美弥(女生徒3)
小雪の同級生3人組。物語中では立ち絵がなく、由香以外は表情も1パターンのみで、名前の表記も女生徒1?3であった。佳澄にいたっては名前が一切呼ばれず、発売後に命名されている(由香→佳澄→美弥でしりとりになるように名づけられた)。このうち美弥は人気投票でメインキャラの浩二とクリスを抑えて5位に食い込むコアな人気を獲得した。
ロナウド
元ネタはドナルド。2ちゃんねるのアスキーアートネタを取り入れたシーンがある。

2009年01月28日

天狗党の乱(てんぐとうのらん)

天狗党の乱(てんぐとうのらん)とは、1864年5月2日(元治元年3月27日)に起きた、水戸藩士藤田小四郎ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵と、その後これに関連して各地で発生した争乱のことである(1865年1月14日(元治元年12月17日)に主導者投降)。武士階級以外の階層や水戸藩領以外からも多くの参加があり、行軍中に政治的な宣伝も行った。
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水戸学と尊皇思想
水戸藩主第2代徳川光圀が彰考館において大日本史の編纂を始めて以来、第10代徳川慶篤の孫徳川圀順が1906年(明治39年)に完成させるまで、代々多くの藩士が事業に携わることとなった。

編纂が進むにつれてその思想体系などが整備され、やがて水戸学と呼ばれる学問の一派へと成長し、水戸藩士は皆等しく水戸学の尊皇思想の影響を受けることとなる。

しかし、この思想は尊皇を説くあまりに、幕府より皇室を重んじる傾向があったため幕府から猜疑の目で見られる原因となり、幕政の中心から遠ざかる原因ともなった。

派閥間の対立
大日本史の編纂事業は、江戸時代中頃に停滞期へ入ってしまうが、それを復興したのが立原翠軒であった。立原の下には多くの門人が集まり、その中には弱冠10歳で入門を許された古着商藤田屋の息子、藤田幽谷の姿もあった。

幽谷は18歳で幕府老中の松平定信に求められて「正名論」を提出するなど才能を開花させるが、立原との大日本史編纂を巡る考え方の違いや、立原に謹慎を申し渡されていた中で藩主徳川治保へ封事を提出して免職されるなどしたため、立原は絶交。師弟は対立するようになる。

1797年(寛政9年)、藩主治保は幽谷の考えに沿って大日本史の編纂を進めることを決定し、立原は彰考館を退職。これによって両者の対立は派閥間の争いに発展することとなる。

その後、立原派=保守派、藤田派=改革派として政治的対立が続く。改革派を継いだ藤田東湖が両派の関係修復に尽力するも、1855年に発生した安政の大地震にて東湖が圧死すると調停役を失った抗争は一気に泥沼化。血の粛清へと発展する。

これら抗争によって両派とも巨頭になり得る人材を失い、問題の解決と関係の修復を行う力を失っていった。

挙兵
改革派から過激派へ
日米修好通商条約許さずの天意を無視する形で条約調印に踏み切った幕府に激怒した孝明天皇は、幕政における復権を画策していた水戸藩の朝廷工作に乗り、1858年9月14日(安政5年8月8日)、同藩に対して直接勅書を下賜するという異例の行動に出た(詳細は「戊午の密勅」を参照)。

大老・井伊直弼ら幕府主流派は密勅が倒幕を画策するものであると捉え、水戸藩に対して勅書の幕府への引渡しを命じる一方で、将軍家定の後継者問題を巡る対立で水戸藩が中心となっていた、いわゆる一橋派に加担していた人物への弾圧を強めていった(「安政の大獄」)。

幕府からの勅書返納命令に対し、水戸藩内は旧保守派を中心として返納する論(鎮派)と、旧改革派を中心とした反対論(激派)に分かれて対立する。翌年に朝廷から出された返納の勅により、ようやく朝廷へ直接返納することで藩論が統一される。

藩論が返納となったことで激派への弾圧はいっそう厳しいものとなった。また、激派の中には返納派が密かに幕府へ勅書を渡してしまうのではないかと疑い、脱藩して実力行使にて幕府返納を阻止しようと考える者もいた。

高橋多一郎ら脱藩した水戸浪士達は長岡(現・茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、同志・農民など数百人がこれに賛同して合流した。彼等は「大日本至大至忠楠公招魂表」と書かれた札を立てて長岡宿での検問を実施、江戸への勅書搬入を阻止しようとしたのである。

後に「長岡屯集」と呼ばれるこの行動は、鎮派を牽制する程度の効果はあったものの、水戸に残る激派の立場を更に危うくすることになり、謹慎中の前藩主斉昭も「返納の阻止は天意に反する」と説得した為、主だったメンバーが江戸に脱出することで解散した。

脱出した水戸浪士らは数日後、薩摩藩士と共謀して井伊直弼を暗殺(桜田門外の変)。1860年9月29日(万延元年8月15日)に斉昭が病死すると行動は更に活発となる。半月後の10月11日(旧暦8月27日)には竹内百太郎ら浪士37人が江戸(芝)薩摩藩邸に駆け込み攘夷の先鋒ならんとする意見書を提出したことを皮切りに、玉造勢騒動、英国仮公使館襲撃事件、坂下門外の変などを起こし、ここ完全に過激派と化すに至った。

挙兵
1862年春(文久2年夏)、島津久光の政略によって一橋慶喜・松平春嶽の2人が幕政に復帰すると、春嶽によって「将軍家茂は上洛して帝にこれまでの失政を陳謝すべき」との進言が為され、また2度に渡る勅使下向によって幕府の勅命実行の確約(条約破棄+攘夷)は、もはや避けられないものとなっていた。

まず将軍上洛に先立ち、後見職にあった慶喜が先に入京することとなったが、まだ慶喜には幕府から与えられた家臣がいるのみで信頼委任できる腹心がいなかった。そこで実家である水戸藩へ命じ、上洛に追従させることにした。

1863年2月3日(文久2年12月15日)に一橋慶喜が江戸を出立すると、9日後の2月12日(旧暦12月24日)水戸藩主徳川慶篤らが追従し江戸を出立する。その中には武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が連なっていた。

彼らは京都において、長州藩士桂小五郎、久坂玄瑞、その他京都に集う志士達と交流を重ねるうちに尊皇攘夷の志をますます堅固なものとして行ったのである。 更に藤田は長州藩と図り、東西で一斉に挙兵して幕府に攘夷を迫る計画を立てるが、これは時期尚早であると耕雲斎に諌められ失敗に終わっている。

一方、慶喜は既に攘夷の実行は不能と悟っており、しかし将軍上洛までに何らかの行動を起こさなければ将軍が矢面に立たされることとなってしまう。そこで攘夷実行の期日を将軍帰京後より1月後という短期間に設定することで逆に実行不能の口実を作ろうと画策したのであるが、これが後に激派の不満を爆発させる一因となってしまう。

幕府は八月十八日の政変で猶予を得たものの、天皇の攘夷の意思は変わらず、横浜港鎖港督促の沙汰が10月13日(旧暦9月1日)には慶喜に対して、10月26日(旧暦9月14日)には朝廷に参内した首席老中酒井忠績に対して行なわれると、引き伸ばし工作も限界となり、2回目督促と同日、ようやく横浜港鎖港交渉を開始する。交渉相手となった米蘭公使には事前に「朝廷をなだめる為に仕方なくやっている」と通告していた為、交渉は穏やかに進んだと言われている。

米蘭との交渉で鎖港を拒否された為、今度は10月31日(旧暦9月19日)に、米・英・仏・露の4カ国公使と会見しての説得を試みたが、今度は会見そのものを拒絶されてしまう。

松平容保による朝廷工作もあって、巧みに攘夷実行を遅らせることに成功した幕府であったが、攘夷派の不満は増す一方であった。

1864年3月26日(文久3年2月19日)に朝廷が出した横浜港の鎖港と海防軍備に関する勅愉に対しても幕府は無策を続けるつもりだと判断した藤田小四郎は自ら攘夷実行の先駆けとなるため挙兵の意を固め、北関東各地を遊説して同志を募り、軍用金を集めた。

そして1864年5月2日(元治元年3月27日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に気勢を上げ、遂に挙兵に至る。藤田は23歳と若輩であったため、藤田らに理解のある水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。

小四郎挙兵の報を聞いた水戸藩目付役の山国兵部は、弟の田丸稲之衛門が主将に担がれていることを知り、藩主慶篤の命を受けて説得に赴くも、逆に諭されて天狗党に加担することになってしまう。この時、兵部は71歳であったと言われ、23歳の小四郎の若さに任せた勢いに飲み込まれたものと推測される。

挙兵後、各地から続々と浪士、町民、農民らが集結し、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1,000人という大規模な集団に膨れ上がった。

「天狗党」の由来
「天狗党」の由来には二通りの説がある。

保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。
改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。

挙兵後の争乱
保守派による排撃
筑波山で挙兵したことから筑波勢、波山勢などと称された天狗党には、藤田小四郎の勧誘に同調した浪士、藩士はもとより、町民、農民や神官なども多く加わっていた。

1864年5月8日(元治元年4月3日)には下野国日光(栃木県日光市)へと進み、日光東照宮へ参拝しようとしたが、途中日光奉行に妨げられた為、一部の者が参拝したに止まった。

日光を出発した天狗党は常陸へと向かっていたが、水戸藩内で保守派の市川三左衛門が弘道館の反藤田派を巻き込んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を始めたことを知り、筑波山へと引き返す。

途中、田中愿蔵が別働隊を組織して栃木、真鍋などに送り、資金調達を図るも失敗。このとき断られた腹いせに町へ放火するなどした為、天狗党は「暴徒」として認知されることとなってしまった。 幕府は天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じる。水戸藩もこれに応じて市川らを中心とする追討軍を結成し、1864年8月8日(元治元年7月7日)に諸藩連合軍と天狗党との戦闘が始まった。

下妻近くの多宝院で天狗党の夜襲を受けるなどして諸藩軍は敗走。市川らは水戸へ逃げ帰ると水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火、家人を投獄するなど(銃殺したという話も残っている)の報復を行なった。

挙兵時は尊皇攘夷の旗印の下に集った志士達であったが、身内虐待の情報による動揺は藤田らも抑えることができなかった。他藩の志士たちは天狗党の目的が水戸藩内の対立優先に傾いて来た頃から次第に離れ始め、約500名が天狗党と決別した。彼らは当初筑波山周辺に留まっていたが、後に横浜港鎖港の実力行使を行なうべく江戸へ向かって進撃するものの、鹿島付近において幕府軍に包囲され、交戦し敗散している。(田中愿蔵の別働隊も後に八溝山に至って解隊、ほとんどが捕われ処刑される。)

水戸藩士民を中心とする天狗党の主体は水戸城へ向かい市川一派と交戦するがこちらも敗退し、那珂湊の近くまで退却する。 一方、京都にいる藩主慶篤の名代として宍戸藩主松平頼徳が幕命により内乱鎮静のため水戸へ下向するも、一行の中に武田耕雲斎ら激派の要人が加わっており、尊攘派の士民が多く同行していた為、市川らは戦備を整えて一行の入城を拒絶する。頼徳は入城させるよう市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。頼徳らは仕方なく退いて、水戸に近い那珂湊を占拠して布陣した。この那珂湊攻略の際に天狗党の一隊が駆けつけ頼徳方に加勢した。頼徳は水戸城下の神勢館に進んで更に入城の交渉を行うが市川は拒絶し、戦闘は拡大した。頼徳勢は善戦するが、補給と戦闘の終息を考慮し再び那珂湊へ後退する。天狗党の加勢を受けた頼徳は、市川らの工作もあり幕府によって天狗党と同一視され討伐の対象にされてしまう。幕府の討伐軍に包囲されつつあった天狗党は、頼徳勢と合流すべく那珂湊へ向った。頼徳勢では当初、暴徒とされていた天狗党と行動を共にする事に抵抗があったが、この頃には天狗党に対する賛同論が広がっており、劣勢に立たされていた頼徳勢は天狗党と合流し共に市川勢と戦うことになるのであった。この合流によって、天狗党挙兵には反対であった武田耕雲斎が天狗党と行動を共にする事になる。

幕府による追撃
一度は敗戦した市川ら諸生党は幕府に応援を要請し、那珂湊を包囲する。幕府は田沼意尊を将とする部隊を派遣。共に那珂湊を包囲する。

11月4日(旧暦10月5日)に松平頼徳が「幕府に真意を訴える」として幕軍に誘き出されて水戸城下へ移され切腹、頼徳の家臣ら千人余りが投降し、後に佐倉藩や古河藩などに預けられた。天狗党は大混乱に陥るが、何とか脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結する。ここでの会議で武田耕雲斎が一行の総大将となり、幕軍の追っ手から逃れると共に、京都に上り一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。以前、町に放火するなどして民衆の反感を買ったことを反省した天狗党は、略奪・殺戮を堅く禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。天狗党が諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことは、島崎藤村の代表作『夜明け前』にも記述されている。

天狗党は武田耕雲斎を総大将とし、大軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之衛門、輔翼に藤田小四郎と竹内百太郎を中心として天勇隊・虎勇隊・竜勇隊、正武隊・義勇隊、奇兵隊を編成、11月29日(旧暦11月1日)に大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。

当然、諸藩には幕府から天狗党追討の命令が出ていた。しかし、天狗党は数々の戦闘を経験した精鋭であり、一説には数十門とも言われる大砲を所持しており、また通過地には小藩が多かったため臆して手が出せず、天狗党と幕軍が逃追しながら通過して行くのを見守るしかなかったようである。諸藩の中には密かに天狗党と交渉し、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を献納した藩もあった。

しかし、戦闘がなかったわけではなく、上州下仁田では高崎藩の藩兵と、信州諏訪湖近くの和田峠では高島藩・松本藩連合軍と交戦し、これを敗走させている。この時、天狗党の中に、その剛力から「今弁慶」の名で呼ばれていた常陸久慈の僧侶、不動院全海という人物が戦死し、高島藩士北沢与三郎は彼の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして焙って食べたとの逸話が残されている。高崎藩などに大勝した事が更に天狗党の武名を高め、その後の通過地でも戦闘を避ける藩が増える事に繋がり、後を追う幕府軍も一定間隔を置いて追尾するのみで簡単に戦闘を仕掛けようとはしなかった。

投降
天狗党一行は中山道を進み美濃鵜沼宿付近まで到達するが、周辺には彦根藩、大垣藩、桑名藩、尾張藩、犬山藩の大軍が陣を敷き、天狗党を待ち受けていた。これらの討伐軍を打ち破り中山道を進んで京都に至る事は困難と予想されたので、天狗党は中山道を外れ北方を迂回して京都に向って進軍を続けた。 水戸藩出身の一橋慶喜は事態の収拾を図るため自ら天狗党追討を朝廷に願い出て、加賀藩、会津藩勢などを従えて討伐に向った。これらを加えて幕府の討伐軍は更に強大な布陣を敷き天狗党の前に立ちはだかった。揖斐宿に至った天狗勢は琵琶湖畔を通って京都に至る事は不可能と判断し、更に北上し蠅帽子峠を越えて越前に入り、大きく迂回して京都を目指す事とした。すでに12月に入っており寒気は厳しく積雪のある峻険な峠を越える事は不可能とも思われたが、一行は困難を乗り越え越前に入ることに成功した。

1865年1月8日(元治元年12月11日)、天狗党一行は遂に最期の地、越前新保(福井県敦賀市)に至る。幕府の追討軍は天狗党の行き先を察知して転進し、それを包囲しつつあった。天狗党一行は徳川慶篤と徳川慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、京都から来た幕府軍を徳川慶喜が率いていることを知り、慶喜に差し出した嘆願書の受け取りも拒否されて、自分達の志が潰えたことを悟る。

最前線で天狗党と対陣していた加賀藩の監軍・永原甚七郎らは、抵抗せずに嘆願しようとしている天狗党に同情し、武田耕雲斎らに降伏を勧告する。交渉の結果、1865年1月14日(元治元年12月17日)、武田耕雲斎ら天狗党幹部はこれ以上の進軍は無意味と判断し、抗戦論を退けて加賀藩に投降、天狗党は武装解除して乱は完全に鎮圧された。

当初、加賀藩は、彼等の勤皇の志に胸を打たれ、かなりの好待遇をもって迎えたようである。しかし田沼意尊率いる幕府軍は強硬な態度で戦後処理を進め、到着するとすぐに彼等を捕縛、鰊倉のなかに監禁した。

藤田をはじめとする主な人物はただ倉の中に放り込まれただけであったが、その他のものはきつく手枷足枷をはめられ閉じこめれた。 狭い鰊倉の中に大人数が押し込められ、1日握飯一つと湯水一杯という粗食しか与えられなかった。厳寒の中、用便用の桶と魚の異臭が籠る倉の中で倒れる者が続出し、病死者は20名以上と言われている。 加賀藩は天狗党の行動は単に勤皇の志に動かされてのものであり、寛大な処分を願うとの嘆願書を幕府に提出し、彼等の助命を願い出るものの、同情論や過激派による更なる挙兵を防ぎたい幕府によって全員の処刑が決定される。

3月1日(旧暦2月4日)、武田耕雲斎ら幹部が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、3月20日(旧暦2月23日)までの間に353人が斬首、他は遠島、追放などの処分が科された。

なお、遠島処分となった武田金次郎以下110名は、小浜藩に預けられて謹慎処分となった。同藩は彼らを准藩士格として扱い、佐柿(福井県美浜町佐柿)に収容のための屋敷を建てて厚遇した。慶応4年(1868年)、朝廷より水戸への帰藩を命ぜられ、佐柿を後にした。

主導者への裁定
名前、処刑日(旧暦)、辞世の句の順に記載。

斬首の後、水戸にて梟首
首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、4月20日(旧暦3月25日)より3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。

・ 武田耕雲斎 3月1日(2月4日) かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪
雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪
・ 田丸稲之衛門 3月1日(2月4日)
・ 山国兵部 3月1日(2月4日) ゆく先は冥土の鬼と一と勝負
・ 藤田小四郎 3月20日(2月23日) かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき
さく梅は風にはかなくちるとても にほひは君が袖にうつして

斬首
武田彦衛門
武田魁介
根本新平
川上清太郎
秋山又三郎
高橋市兵衛
小野藤五郎
芹澤助次郎
瀧口六三郎
岩間久次郎
玉造清之允
安東彦之進
桑屋元三郎
金澤要人
二方舎人
大島官壽
本田佐久之介
澤田信之介
片岡源次
楠帯次郎
高瀬秀之介
津久井衛門七
白須権次郎
堀江一壽
小泉虎次郎
小泉芳之介
津村雄二郎
栗田源左衛門
平野重三郎
荘司与次郎
寺門左太吉
鈴木秀太郎
関雄之介
黒澤新次郎
相田健之介
松崎熊之介
安東正之介
飯村慎三郎
安島鉄次郎
篠原造酒
北川元三郎
藤田秀五郎
小田部重平
高橋辰三郎
森荘三郎
阿久津蔵之介
小林蘆左衛門
大高要介
小林貞七郎
加藤木総吉
加藤木勇之介
川澄善兵衛
堤三之助
谷島福次郎
中崎貞介
中庭直三郎
川津丑之介
梶山敬介
青木源之允
青木源吉
安掛藤十
安清四郎
小沼義太郎
登戸佐兵衛
幡谷善七
小貫藤介
皆川亀松
小澤弥一郎
森山勝蔵
浅野善十郎
前島竹次郎
加藤卯之介
栗又鉄之介
内藤利兵衛
卯月七之介
飯島喜介
山澤啓介
長峰寅松
藤田理兵衛
坂本勝次
鈴木荘三郎
岡野亀太郎
小松崎荘之介
小沼栄介
田村長衛門
山田才介
金澤啓蔵
坂本啓介
樽井総吉
 ほか

乱後
乱が鎮圧されると水戸藩では諸生党が中心となって、武田耕雲斎の妻子を始め、乱に加担した者の家族を尽く処刑した。しかし、天狗党の一部で赦免された者は、長州藩の支援なども受け京に潜伏し、本国寺党と称して復権を目指して行動していた。

一方、保守派によって完全な佐幕派となってしまった水戸藩に対し、戊辰戦争が勃発すると諸生党に対する追討命令が朝廷から出された。これにより、本国寺党をはじめとする天狗党の残党が次々に水戸藩に舞い戻った。

それを好機と見た、かつての天狗党派の者たちが一気に勢力を逆転し、今度は親の敵とばかりに諸生党を激しく弾圧した。

藩内では武田金次郎ら天狗党が盛り返すとともに、諸生党に対する迫害が激化した。藩士ばかりでなく農民・町民の間でも凄惨な報復やリンチが繰り広げられた。市川三左衛門ら諸生党は水戸藩を脱すると、北越戦争や会津戦争を転戦。新政府軍に対して善戦した事もあったが、東北での戦線が新政府軍勝利の形で沈静化すると、一行は天狗党が政権を握った水戸藩へ舞い戻り水戸城を奇襲した(弘道館戦争)。しかし、水戸城は諸生党の攻勢に耐え、攻めあぐねた諸生党は水戸を脱出し、なおも新政府軍や水戸藩軍と戦い続けたが下総八日市場の戦いで壊滅(松山戦争)。市川を始め、諸生党の多くが処刑された。

これら度重なる内部抗争により多くの血が流れ、才能が消散してゆく。激動の幕末期において一時は牽引役として活躍した水戸藩も、ついにはこれといった才覚ある人物もいない状態となり、明治になってみれば新政府に1人の要人を出すこともできなかった。

エピソード・その他
水戸のイデオロギー対立、政争に隠れているが、天狗党の多くに水戸藩領以外からも参加がありそれも武士階級以外の階層が含まれている点、政治的な宣伝を行軍中に行っている点など、乱の初期から過酷な行軍の間にかけて意識や思想に何かしらの変容があった可能性も明記しておくべきであろう。山田風太郎は毛沢東の「長征」とこの乱を比較しているが興味深い点ではある。
山国兵部の辞世の句は、暗い句が多い中で異彩を放っているが、彼の弟である田丸稲之衛門の次女八重(諸生党によって斬首)も、17歳とは思えない辞世の句を残している。
引きつれて 死出の旅路も 花ざかり
敦賀市の古老がかつて(戦時中頃か)身近な人々に語った記憶によれば、処刑に引き出された党員は、逃亡を阻止するためか、両足を竹に括られていたという。処刑は公開で見物に行ったそうである。
乱後?いわゆる「弘道館戦争」に至るまでの水戸藩における粛清と混乱に関しては、山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』にくわしい。
水戸を初めとする茨城県では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶ地域もある。
天狗党の乱の繋がりで、水戸と敦賀は姉妹都市となっている。
上述の通り、旧水戸藩からは明治初期の新政府には主要な人材が出ていない。水戸藩地域からの出身者で公務員となったものはいるが、ほとんどが下級の警官である。                                          
明治7年、武田耕雲斎以下の天狗党員を祀った松原神社が敦賀市松島町に建立され、毎年10月10日には例祭が行われている。昭和29年には、天狗党員が監禁された鰊蔵が境内に移築され、「回天館」という水戸烈士記念館となっている。
天狗党員の家族らが処刑された水戸赤沼牢跡には慰霊碑が建てられている。

2009年01月20日

アメリカではトランジスタを使用したミニコンピュータ

アメリカではトランジスタを使用したミニコンピュータからオフィスコンピュータにあたる Small Business Computer (SBC)が誕生したのに対して、日本では逆にオフィス向け小型コンピュータの方が先に進化した。このため、英語圏ではミニコンピュータにSBCが含まれるのに対して日本ではミニコンピュータとオフィスコンピュータが別のものとして存在することになった。

1959年、会計用機械を輸入販売していた日本事務機が電子会計機の国産化を日本電気に依頼した。日本電気は既に実績のあるパラメトロンを使用した NEAC 1201 を開発し、1961年にリリースした。当時、日本事務機が唯一の販売代理店であった。これは好評をもって迎えられ、日本電気は1964年に後継機の NEAC 1210 をリリースすることとなる。

日本電気の独擅場であったオフィス用小型コンピュータの市場だが、1965年、富士通がFACOM 230/10を投入。これは日本語COBOLを利用できるトランジスタ式コンピュータであった。対する日本電気は1967年、ICを全面採用した NEAC 1240 を発表。1968年には東芝(TOSBAC-1500)、三菱電機(MELCOM-81)、内田洋行(USAC-300)などが製品を投入し、オフィスコンピュータ市場は一気に活況を呈することとなった。

1970年代には、販売管理、財務管理、人事給与など本格的な事務処理機能を備えたオフィスコンピュータが登場するようになった。特に1974年の NEAC システム100 がオフコンの名を定着させた。

オフィスコンピュータはメインフレームのような海外からの技術導入とは直接関係なく進化していった。また、日本独自の商習慣や日本語を扱う点などがシステムそのものの設計にも影響し、海外からの進出が困難だった市場でもある。

現状
旧来の端末は、受け取った画面データを表示したり、入力信号をデータ通信するだけの機能しか持たない。その一方、Windows系のパーソナルコンピュータ(主としてPC/AT互換機)の処理能力や記憶容量が向上し、受け取った数値データを、必要な表に変換したり、接続されたプリンターやスキャナー等の接続機器からのデータを処理する能力も持ち合わせるようになった。このため、現在ではこれらのパソコンをLANでネットワーク化することにより、かなりの業務処理が出来るようになった。

またこれらのオフィスコンピュータは、いわゆる2000年問題を抱える事も多く、1999年までに多くのオフィスコンピュータがシステムの刷新を求められた。その結果、高価なオフィスコンピュータ(と複数の専用端末)は、システムの乗り換えによって徐々に使われなくなって来ている。

しかしながら、オフィスコンピュータがクローズドアーキテクチャであったことから、長く蓄積された業務情報などの資産を全面的にWindows系OSなどへの環境に移行することはコスト的に困難である場合も多い。そのため、その過渡期的なものとして、オフィスコンピュータの端末としての機能をパソコン側の端末エミュレータに持たせる事で、双方の機能を共存させて連携・運用できるものもある。これらは、現在においても金融機関や病院などの一部オフィスで利用されている。
チャリティー ギアチェ ハンドカ ブートニア あらいそ ソフロニ 潮風の迷子 さらべつ マーキ キャンディ ジェット シャドウ ギガビット 花御所 クロサス インス 氷の炎 ブラフ バーター オサォー ヤッケ テール ファウスト サマー シンジュ ユーディ リニア サーチワキ ケース かしど トロンビン シービー ヨモギ サーチャ ビブラ オータム ギニア ダイス フリー プレカリ ノンポリ テトロン マハー あぜみち しゃりき マッスル プロビジ ビュライト ロードシ カの風

代表的なオフィスコンピュータ

富士通 : K シリーズ、GRANPOWER6000(GP6000)シリーズ、PRIMERGY 6000、FACOM9450、FM Gシリーズ
日本電気 : N5200シリーズ、S3100シリーズ、S7100シリーズ、S100シリーズ、Express5800/600シリーズ
IBM : AS/400シリーズ、eServer iSeries、System i、Power Systems
日立 : HITAC、L-30,L-50,L-70シリーズ、L-700シリーズ
三菱電機 : MELCOM80シリーズ、RX7000シリーズ、Entranceシリーズ、CENTRAGEシリーズ 
なお、日経BP社の日経ソリューションビジネス(2005/10/30号)の記事「基幹業務のプラットフォームは汎用機とオフコンが依然7割近く」によると、サーバの稼動台数ではPCサーバが73.9%(オフィスコンピュータは12.3%)と圧倒的だが、利用用途別シェアで基幹業務用途だと汎用機30.6%、オフィスコンピュータ36.2%となるとのこと